なぜ熱力学か

いくつかの異なる分子の混合物からなる液体が温度T、圧力pの状態において、気体と平衡状態に達しているとき、その状態を気液平衡vapor-liquid equilibrium(VLE)と呼ぶ。また、液体同士でも油と水のように分離して平衡状態に達することがある。そのような状態を液液平衡liquid-liquid equilibrium(LLE)と呼ぶ。ついでにもうひとつ付け加えると、液体が二相存在する上に気体も同時に存在する液液気平衡liquid-liquid-vapor equilibrium(LLVE)なる状態も成立する。固体にも複数の相が存在しうる。

きりがないので、ここでは読者が想像しやすいように気液平衡を例にとろう。現実世界では多くの場合において系の温度と圧力は実用的な方法で観測可能である。しかし分子が気相と液相にどのように配分されているか、すなわち、系全体の体積Vのうち、気相が何%を占め、液相が何%占めるかという問題も簡単には計測できない。とは言っても、相がどのように存在するかは貯留層工学にとって大変重要であり、既知の情報から何とか残りの情報を計算できないものか、と思う訳である。そこで熱力学の一部を用いることにする。

熱力学は、教科書的な筋書きだとカルノーサイクルや断熱膨張などの話に展開するので、仕事や効率に関する学問だと感じるかもしれないが、本書ではそういうアプローチはしない。それよりもいくつかの公理を元に数学的に押してゆく方法をとる。というのも、熱力学は平衡状態の情報をバルクbulkで完全に記述する汎用的な学問であり、平衡状態での相挙動の話をするときに、ピストンつきのシリンダーやサーモスタットなどのややこしい思考実験をする必要がほとんどないからである。バルクの情報というのは、系内でマクロに定義される温度や圧力といった情報のことである。平衡状態を完全に記述できる学問体系なのであれば、分子が相を跨いでどのように配分されているかの情報も求められるはずである。熱力学の一部をうまく使うという意味では、本書で語られる熱力学は基礎と言うより、実は応用である。もしこれから展開される議論が大学や高校で習った熱力学の議論とかみ合わないと感じることがあれば、それは貯留層工学で必要な熱力学的な議論は全体の一部だからである。