郭沫若の話
繁体中国語 | 郭沫若 |
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簡体中国語 | 郭沫若 |
拼音 | Guō Mòruò |
日本語読み | かく・まつじゃく |
性別 | 男 |
別名(原名) | 郭開貞 |
別名(字) | 郭鼎堂 |
出生 | 1892年11月16日 四川省楽山県 |
逝去 | 1978年6月12日 北京市(85歳) |
主な経歴 | 1949―1978 中国科学院院長 1949―1954 政務院(後の国務院)副総理 |
郭沫若は中華人民共和国初期を代表する歴史学者であり、考古学者である。また建国直後の重要な政治家(政務院副総理)としても活躍した。国民党と共産党の間を渡り歩いており、さらに日本と中国の間を政治的な理由で行き来した複雑な経歴を持っている。
幼少期に長兄の郭開文が日本に留学していたことから自らも日本留学を志すが両親の許しが得られず故郷の楽山の高等小学校に進学する。後に兄の援助により希望が叶い、東京の第一高等学校予科に進学。岡山の第六高等学校を経て、九州帝国大学医学部を卒業。
中国に帰国後は、一旦国民党に入り北伐に携わるが、1927年の南昌起義に参加して中国共産党に入党する。仇敵となった蒋介石に追われ、亡命と言う形で再度日本に移り市川市に居住する。中国史の研究はこの時期に大きく進められた。日中戦争が勃発すると、今度は国民党の重慶国民政府に参加する。
戦後は中華人民共和国に参画し、建国と同時に設立された中国科学院の院長を1978年に死去するまで務めた。中国科学院は建国初期は社会科学・自然科学の科学全般を研究対象としていた。
中華人民共和国建国初期から鄧小平時代に至るまでの期間(いわゆる毛沢東時代)は、党中央の最重要人物に文学者や文筆業を生業とする人物が多かったが郭沫若も中国史と近代文学の専門家である。
科学・文学・教育の分野は、国家のイデオロギーの拠り所となる根幹であり、毛沢東の最晩年に改革と保守の狭間で大変な混乱を経験した場所である。教育行政を担う中枢の一つである中国科学院も例外ではなく、建国から文革終結まで一貫して院長として在任していた郭沫若も不安定な権力闘争の影響で主張が転々としている。
すでに記述した通り、日本に留学・亡命経験があり、日本人女性と結婚していたことなどから日本との関わりが深い。亡命期に居を構えた千葉県市川市には郭沫若記念館がある。
参考資料
1) 中国科学院院史所史 2014年10月9日閲覧(簡体中国語)
2) 郭沫若互动百科 2014年10月9日閲覧(簡体中国語)
3) Deng Xiaoping and the Transformation of China, Vogel, E.