横浜の話
港の数多かれど、この横浜にまさるあらめや
これは森鴎外作詞の横浜市歌の一節です。
少し前のことになりますが、バンクーバー領事館が主催したバーチャル写真コンテストに昔横浜で撮った写真を応募しました。他の方の作品と共に領事館のウェブサイトで公開されています。そこで今日は私と横浜の思い出について書いてみたいと思います。
私が育ったのは東京の日野という町です。福生や立川といった空軍基地の町や、航空自衛隊の司令部があった府中に近く、小さいころから基地文化やアメリカ文化の影響を受けていたように思います。地理的にはすごく近いわけではありませんが、20世紀における基地文化の中心的役割を果たしていた横浜・横須賀とも無縁ではありませんでした。横須賀には夏休みによく家族で泳ぎに行ったり、軍艦を見に行ったりしました。良い思い出です。横浜も同じようなコンテクストで大切な町なのですが、むしろ幼少期はあまり縁がなく免許を取った19歳の秋以降によく遊びに行くようになりました。私の故郷と横浜・横須賀を結ぶ道の沿線は、車、英語、海などをモチーフとしてサザン、TUBE、杏里、杉山清貴といったアーティストを輩出したエリアと重なり、八王子出身のユーミンは独特なキッチュ(紛い物)感があると評しています。世間が湘南に似非カリフォルニアを見出していた時代に生まれた私は所謂国道16号文化圏に取り込まれて成長した訳です。
軍需道路として有名な国道16号は首都圏をぐるりと囲む環状道路で、横田基地のすぐ北で東京都に入り、私の通った高校がある八王子、高校の友達が沢山住んでいた町田を通り過ぎて神奈川県に抜け、横浜、横須賀まで通じています。免許を取ったばかりの頃は町田に友達を迎えに行って、保土ヶ谷バイパス経由で横浜まで出て首都高を走る「練習」をしたものです。土曜日の夜に大黒パーキングまでスポーツカーを見に行ったことが懐かしいです。車を手に入れた東京多摩地方の若者にとって、一番近い都会は横浜でした。
23歳くらいの時、大学の研究室で仲良くなった友人が横浜の南区出身で、よく一緒にスキーや旅行に行きました。何度も車で国道16号を行ったり来たりしたものです。そのころから彼の影響で横浜の都心で遊ぶようになりました。同じくらいの時期に妻と出会い、友人に教えてもらったレストランに行ったり、元町や中華街で買い物や食事をしたりしました。社会人三年目に結婚しましたが、妻の希望でホテルニューグランドを式場に選びました。海外に住んでいる今も帰国した際はニューグランドを常宿にしています。
ユーミンは基地文化をまとめてキッチュと表現しましたが、私は横浜の魅力を敢えて不良っぽさと表現したいです。かつて横浜を舞台に人気を博したあぶない刑事というドラマがありましたが、いまでもああいう少し反抗的でジャジーな雰囲気は残っていると思います。いろいろな本や論文を読んでいると、現代における横浜というキャラクターの萌芽は終戦後の占領政策に端緒を見出すことができます。終戦とともに町ごと駐留してきた米軍とその周りに集まった有象無象の人々が混然一体となって作り出したものだと思っています。それが時を経て三日住めばハマっ子と言う懐の深さとなり、独特な異国情緒となり、いまも多くの人を魅了するのでしょう。
という訳で横浜という町は、基地文化を結ぶ点と線から始まって、個人的なあこがれや、親しみ、友人たちとの交流によって、私の価値観や帰属感を形成する大切な場所の一つになったというお話でした。帰国したらスカンディヤの北欧料理を食べに行きたいと思います。
参考文献
- 森 勝彦, 不管地の地政学 アジア的アナーキー空間序論, 中国書店, 2019
- 塚田 修一, <基地文化>とポピュラー音楽:横浜・横須賀をフィールドとして, 三田社会学会, 2014