鄧力群の話
繁体中国語 | 鄧力群 |
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簡体中国語 | 邓力群 |
拼音 | Dèng Lìqún |
日本語読み | とう・りきぐん |
性別 | 男 |
出生 | 1915年11月27日 湖南省桂東県 |
逝去 | 2015年2月15日 北京市(99歳) |
主な経歴 | 1975-国務院政治研究室メンバー 1978-1980 中国社会科学院副院長 1982-1985 中宣部部長 |
鄧小平によって特に重用された理論家であり、鄧小平によるスピーチの草稿を数多く担当したことから、党の最高幹部ではないながらも実質的に大きな影響力を持った人物である。同じ鄧姓ではあるが、鄧小平と親戚関係はない。
鄧小平は、鄧力群を豊富な知識に裏付けられた理論家と見なしており、権力闘争に身を置く党の幹部候補生ではないこともあって重宝したと言われる。これは鄧力群が、激しい権力闘争が繰り広げられる党内の序列の外にいるために、党中央に身を置く鄧小平にとって考えを交換する相手として好都合であったからである。
率直で信念に忠実な性格であり、権力の中枢に対してもしばしば攻撃の対象にした。また、党の権威を守るためには知識階級でも容赦なく批判を行った。一方で水滸伝Water Marginを読んで養われたという強い忠義を一貫してその生涯で示しており、しばしば時流に逆らって失脚した上司に忠誠を尽くしている。
70年代までは劉少奇や楊尚昆らのもとで党理論誌である紅旗の編集などに携わっていた。文化大革命が勃発し、劉少奇が失脚するとその部下は劉少奇への批判を強いられたが鄧力群は自らの信念により批判を拒否した。その罪に問われ下放されたものの、その時期にマルクス・レーニン理論を習得し、その後の理論家としての基礎を涵養したと言われる。
1970年代初頭になると周恩来・鄧小平らを中心として文革路線の修正が図られるようになった。1975年には、鄧小平がブレーンを集めて文革路線脱却と改革についての最初の骨子を作るべく国務院政治研究所が組織され、鄧力群は7人目にして最後の主要メンバーとして所長の胡喬木によって抜擢された。
国務院政治研究所はのちに全面整頓路線と称される鄧小平が主導する改革路線の参謀部として機能することになるが、イデオロギーが重視される中国において、改革の正当性を宣伝し広報活動を行うという実質的な役割も担っていた。
宣伝部長、中央書記局書記を歴任。80年代には保守派の代表的人物となり改革派の趙紫陽総理らと対立した。2015年に北京市で逝去。99歳。
参考資料
1) Deng Xiaoping and the Transformation of China, Vogel, E.