一回目の留学の話
いま私はスタンフォードに留学中の身だが、実は人生で留学は二度目である。一度目は政府の奨学金をもらって、2005年から2006年まで中国の広州で経営学を学んだ。21歳のときである。当時の広州の町はまさに文明開化といった感じで、多国籍企業の広告があふれ、香港のテレビ番組や音楽がいつも流れていた。今もあるかどうか分からないが、パインビールなる謎の缶入りカクテルを大してうまくもないのによく露店で注文して飲んでいたのを覚えている。私が在籍したのは中山大学という孫文の名を冠した大学で、明るく開放的な雰囲気が漂う学校だった。トロリーバスがごった返す裏門から大学構内に入ると、大通りが北に向かって伸びている。孫文の揮毫による校訓が掲げられた講堂に至ると周囲が開け、ヤシの木が立ち並ぶ南国風のキャンパスが姿を現す。そのまま大通りを北に進むとパールリバーと呼ばれる川の岸部に突き当たって、そこが正門の広場になっている。広場のすぐ下は小さなフェリー乗り場になっており、そこから確か60角(0.6元=10円くらい)で繁華街の埠頭まで出ることができた。
併願した北京大学にも受かったものの、当時の華南に未来を感じていた私は中山大学に進んだ。暗い高校生活(共学)を経て地元で鬱々とした大学生活を送っていた私にとっては、6人一部屋の男子寮で暑い暑いと言いながら暮らす経験はかなり痛快であった。もしかしたら何かの映像でで中国の女工が住んでいる部屋を見たことがあるかもしれないが、そのような環境が当時住んでいた場所のイメージととても近い。木製の机が人数分互い違いに並んでいて、机の間に2段ベッドが3台置いてある。狭いベランダにはいつも洗濯物が干してあって、驚くべきことにベランダと部屋の間に扉はなく、常に開けっ放しである。冷暖房はあるはずもなく、トイレとシャワーは各部屋についているが、湯が決まった時間しか出ないので、よく私は水のシャワーを浴びていた。
最初は留学生用の2人1部屋の少しマシな部屋が与えられていたのだが、ある日ルームメートのフランス人が、ガールフレンドを呼ぶから今日は部屋を出てくれ、金なら渡すからどこか泊まる場所を他に探してくれなどと言い出し、頭にきたのでそのまま部屋を出てやった。その晩は現地の学生が住む寮に居候したのだが、結局そのまま帰国するまで居ついてしまった。当然だがずっと現地の学生の中にいたので、様子がよくわかるようになった。異国の地で私が受け入れられたように思いとても嬉しく、中国の国旗を作って部屋に寄付した。残った紙で自分用にも少し控えめに日本と中国の国旗を作り、机に並べて飾った。当時の日本は小泉政権であり、中国では史上最大規模の反日運動が吹き荒れた後だったが、日本人であることを隠すのではなく、逆に日本人を知ってもらいたいと思ったのだ。
授業はすべて中国語であった。グループディスカッションやグループ課題ではサポート役に徹したが、たまにプレゼンを任せられると、日本風の漫画を手書きで作って紙芝居風にやったりして好評だった。しかし、たまにノートを取るためにディクテーションをさせられることがあり、これが大変辛かった。果たしてどのくらい授業を理解しているかと聞かれれば4割程度だったと思う。当然ノートもろくに取れないのでテストはさんざんであった。
実は私が編入した学年には、私と同じ時期に来た、とても中国語の上手な日本人留学生が一人いた。授業が退屈だったのか簡単すぎたのか分からないが、彼はやがて授業に来なくなった。私は出来が悪い上に彼と同じだと思われるのもなんだか癪だったので、いくら授業が意味不明でも毎日授業に出ることだけは続けることにした。
その甲斐あってか、今でも中山大学の同窓会があると広州に呼ばれる。当時のクラスメイトに会いに行くこともあるし、逆に日本に会いに来てくれることもある。フランス人や中国語のうまい彼とは没交渉である。そんなわけで、第一回目の留学は私と中国との間に、浅からぬ縁をもたらした。留学中に他の日本人や外国人を含めてたくさんの人に会ったが、結局続いているのは当時仲良くしたクラスメイトだけである。おそらく、一緒に暮らしたり、苦楽を共にしたりしたので連帯感みたいなものが関係を特別にしているのだろう。なので、今回もきちんと授業に参加して、クラスメイトを大切にしようと思う。