ロバート・オッペンハイマーと原爆の話
理論物理学者のロバート・オッペンハイマーの半生を描いたドキュメンタリー映画「The day after Trinity」を見た。
オッペンハイマーは原子爆弾の開発者として広く知られており、映画のタイトルになっているTrinityとは人類史上初の原爆実験となったトリニティ実験のことである。オッペンハイマーはまた、カリフォルニアにゆかりのある科学者の一人であるため、かねてからどういう人物なのか伝記を読みたいと思っていた。複数の伝記がこれまでに出版されているが、調べているうちに本作のような有名なドキュメンタリー映画があることを知り早速図書館で借りてきた次第である。忘れないうちに要約を書いておくことにする。
1980年制作、1981年公開の作品で、ほとんどの部分が関係者へのインタビューと記録映像によって構成されている。したがって、インタビューの受け手の個人的な意見が強く反映されており、映画の内容がオッペンハイマーの主義主張と完全に一致する訳ではない点に注意されたい。
J・ロバート・オッペンハイマーは1904年にニューヨークの裕福なユダヤ系家庭に生まれる。学業優秀な少年でありハーバードに進学し三年で卒業する。
その後1920年代に、英国、ドイツに留学し、頭の回転の速いエキセントリックなアメリカ人として鮮明な記憶を残したという。1930年代にドイツでファシズムが台頭しスペイン内戦が勃発すると、西洋文明の危機を憂慮して社会改革運動を支持するようになる。この時期、弟のフランクとその妻ジャクネットが米国共産党に参加していたこともありFBIの監視リストに載ったため、後年ジョゼフ・マッカーシー上院議員の主導した反共産主義運動(マッカーシズム)で攻撃されることとなる。
映画の中での関係者への取材では、オッペンハイマーが原爆開発に携わったのはファシズムから西洋文明を守るためには武力が必要であると考えたためではないか、という話を聞くことができ、反ファシズム運動が原爆開発に携わることになる間接的な動機であった可能性が示唆されている。
1941年に日本が真珠湾を攻撃すると米国がドイツと日本に宣戦布告し、原爆の完成を目指すマンハッタン計画が始まる。
ロバートとフランクが10代、20代に余暇を過ごしたニューメキシコの山中にあるオッペンハイマー牧場にほど近い、ロスアラモスの地に秘密裏に研究所が建設された。ロスアラモスは山間の牧草地から突如新興住宅街へと変貌し、最も近い街であるサンタフェには研究所の秘密を守るFBIのエージェントだらけとなったという。
ロスアラモスには大勢の若い研究者が集められていたが、これといった娯楽もなかったため華やかなパーティで気晴らしをしていた。ロバート・オッペンハイマーは当時開発責任者の任にあったが、エスプリに富んだエレガントなふるまいで狭い社交界で人気の人物となったそうだ。そんな中1944年に入ると核開発の競争相手と見なしていたドイツが原爆の開発に失敗したとの情報が入る。そして1945年5月8日ドイツは降伏する。いわゆるアメリカで言うところのヨーロッパ戦勝記念日(VE day)である。
ユダヤ人でありドイツへの対抗という大義名分で原子爆弾の開発を進めてきたオッペンハイマーをはじめ研究員たちは戸惑う。しかし、日本とはまだ交戦中であったこともあり、開発計画は止まらなかった。1945年7月には人類初の原子爆弾「ガジェット」が完成し、7月16日に最初の爆発実験が行われた。トリニティ実験である。
当時の研究員たちは、戦争が終わるという期待と危険な兵器を生み出したのではないかという懸念が混ざった複雑な思いを抱いたと回想する。ロバートの弟で同じ物理学者のフランク・オッペンハイマーは「成功しても失敗しても不安だった」と語っている。
トリニティ実験の様子はカラーフィルムで残っており、配線だらけの巨大な球状の爆弾が櫓のようなタワーに吊るされてゆく様子を見ることができる。ガジェットは航空機から投下するのではなくタワーに吊るされた状態で炸裂した。
すさまじい熱と閃光が生まれ、砂漠と周囲の山々が昼のように照らされたと言う。次いで衝撃が地震のように伝わり科学者たちを震撼させた。フランクは恐ろしい瞬間(scary time)だったと表現している。
その当時、日本の大都市はB-29の絨毯爆撃(saturation bombing)によってほぼ壊滅状態にあったが、合衆国大統領トルーマンは7月26日のポツダム宣言にて無条件降伏を要求し、戦後を見据えたソ連へのけん制から日本への原爆攻撃を決定する。無傷に近かった大都市が候補地として挙がり、8月6日、8月9日を迎える。
映画の中で原爆の開発に携わった関係者はこう答えている。
最初に感じたことは実験は終わった、戦争終結に貢献することができた、ということだった。しかし、すぐにもたらした結果に衝撃を受け恐怖を覚え、そして二度とこのようなことを起こしてはならないという思いに襲われた。
夫婦で取材を受けていたロバート・ウィルソン(フェルミ加速器研究所初代所長)とジェーン・ウィルソンは、当時の様子を、とても浮かれた気分ではなく落ち込んでいたと証言している。ヨーロッパ戦勝記念日(VE day)のときはユーフォリアの真っただ中にあり、パーティまでしたという彼らだが、この時はふさぎ込んだという。
戦争が終わるとオッペンハイマーは科学力で国家を救った英雄の一人となった。1947年には栄えあるプリンストン高等研究所長に就任する。立場としてはアインシュタインの上司にあたり、米国科学界の最高栄誉といってもよい待遇であった。しかしオッペンハイマーは大統領や政府の意に反して、核兵器の国際的な管理体制を主張し、核の乱用を防ぐ活動を展開する。ソ連、中国等の共産化によって、国際的な緊張状態が高まり核兵器が拡散する兆しが見えていた時期であり、当時のアイゼンハワー大統領は原水爆の開発を推進していた。
1953年には前述のマッカーシズム(赤狩り)が強行され、要注意人物としてオッペンハイマーもその監視下に入る。マッカーシーは直接オッペンハイマーを攻撃しなかったものの、ロシアのスパイであることを大統領に書簡で告発したと言われている。オッペンハイマーは科学者として国家に人生を捧げながらも公職を追放され、1967年、62歳でこの世を去った。
映画では晩年のオッペンハイマーにインタビューした映像が確認できる。ロバート・ケネディが核兵器の拡散防止を主張していることについてのコメントを求められたオッペンハイマーは次のように語る。
「It’s 20 years too late. It should have been done the day after Trinity.」