香港映画を応援する話
10年前の3月26日のことはよく覚えている。22歳の誕生日だったが、風邪をひいて広州の自宅で84年の香港映画「君が好きだから(緣份)」の再放送を見ていた。雨の降る寒い日曜日だった。
10年後の3月26日はと言うと、なんの因縁か久しくフォローしていなかった中国語の映画をまとめて見ていた。いずれも最新のもので、「① Wild City (迷城)」、「② A Tale of Three Cities (三城記)」、「③ Saving Mr. Wu (解救吾先生)」、「④ Gorgeous Workers (華麗上班族)」、「⑤ Guia in Love (燈塔下的戀人)」、の5本。
それぞれの概要は次の通りである。一応、私が面白いと思った順に並んでいる。
①元警官であるバーのオーナー(ルイス・クー)とタクシー運転手であるその弟(ショーン・ユー)が国際的な金融犯罪に巻き込まれるアクションサスペンス。金の持つ力と不条理さがテーマ。
②日中戦争から国共内戦に至る激動の時代の群像をある夫婦にスポットを当てて描いた作品。ある夫婦とは実はジャッキー・チェンの両親であることが最後に分かる。
③北京で実際に起きた芸能人誘拐事件をもとに作られたサスペンスで、警察、犯人、人質といった関係者の心理描写に焦点が当てられている。
④架空の企業を舞台としたミュージカル調の風刺劇。
⑤マカオを舞台にした恋愛譚。台湾映画のような雰囲気。
本当は香港映画が見たかったのだが、①と⑤のみが現代の香港・マカオが舞台であり、他は中国大陸が舞台だ。
感想を述べる前に、まず香港映画の現状について確認させてもらいたい。
80年代から90年代にかけて華語電影(北京語や広東語で作られた中国語の映画)の一大産地と言えば香港であり、その頃の華語電影は香港映画とほぼ同義だった。中国の映画スター=香港スターであり、中国の映画監督=香港映画監督だった。ジャッキー・チェン、チョウ・ユンファ、チャウ・シンチー、レスリー・チャンといった俳優たちや、ジョン・ウー、ウォン・カーワイといった監督たちは香港狭しと言わんがごとくアジアや遠くアメリカにまで出て大活躍した。彼らはもともと香港人だから映画の中で広東語を話す訳で(香港人の母語は北京語ではなく広東語)、信じられないかもしれないが台湾や東南アジア、中国本土の観客向けには北京語吹き替え、つまり中国語を中国語で吹き替えるという形で輸出されていた。
しかし90年代に入りハリウッド映画の復活、日本や韓国のサブカルチャーの人気上昇、中国への返還に対する危機感、アジア危機やSARS禍による不景気などによって香港映画の競争力が相対的に低下していく。映画製作は投資の一種だが、要するに金が集まらなくなったのだ。そんな中、中国が市場を開き、CEPAと呼ばれる香港と大陸の経済緊密化が図られると、香港映画界は生き残りを賭け中国との合作映画を直接北京語で作り、中国市場をメインターゲットにする戦略を取る。中国側は人材と技術を、香港側は金を得たということ。必然的に映画の舞台も香港から中国本土やファンタジーもの、歴史ものに移っていった。
私が中国にいた2005年頃には、すでにその安定期に入っており香港人の映画監督が北京語の映画をたくさん撮り始めていた。私は中港合作映画の雰囲気や世界観にあまりなじめず、逆に90年代、80年代と遡って、ゴールデンハーベストやショウブラザーズの香港映画をよく見ていた訳だが、それでも当時は昔ながらの香港コメディやノワールも撮影されていたので、こういう共存もいいのかなと思っていた。
それから10年たち、久々に華語電影をじっくり見たところ結構衝撃を受けた。今に始まった事ではないが香港映画は大きな枠組みの華語電影に飲み込まれてほぼ消滅しかかっており、広東語で作られた香港が舞台の映画がほとんど存在しない。中国大陸が舞台の北京語の映画はもはや香港映画ではないだろう。どうやら香港の映画界はiPhoneを組み立てるアップルのDesigned by Apple in California, Assembled in China方式(カリフォルニアのアップル本社がデザインしたけど、組み立ては中国)ならぬ、Designed by Hong Kong, Assembled and Consumed in China(香港人がデザインしたけど、撮影と消費は中国)というような生き残り方を選択したらしい。
私が今回見た5本の映画の中で一番気に入ったのは、やっぱり純粋に香港が舞台の①のWild City (迷城)だったが、各映画評論サイトの評価が軒並み悪く[1][2][3]、ストーリーが陳腐な上に物語が非現実的だという意見が多い。確かにこの話はよくあるヤバい金をめぐる戦いであり、巻き込まれた主人公(一般人)は、それまで鬱屈して押しとどめてきた力を一気に爆発させて自力で事件を解決してしまう。でも、この映画はそう短絡的に切り捨てられるのではなくてテーマは何かということで評価されるべきだろうと私は思う。
本作のテーマは金の持つ力と不条理さであり、徹頭徹尾一貫している。物語後半で犯人が香港のセントラルにあるHSBC本店の前で撃たれ、公正の象徴である正義の女神像の天秤が砕かれる場面は象徴的である。(HSBCとは香港の実質的支配者としばしば称される香港上海銀行のことであり、香港における金と権力の象徴である。正義の女神は通常その両手に、正義の象徴として天秤を、力の象徴として剣を携えているが、天秤のみが犯人の放った弾丸が当たって砕ける。)表現があからさま過ぎて陳腐と言えば陳腐だけど、物語を貫くメッセージがそんなに幼稚だとは思わない。
主人公の元警官は億単位の金の動く壮絶な陰謀に巻き込まれるも遂に決着をつける。が、結局金銭的には警察からわずかな謝礼を得ただけだった。しかしその過程で多くの人間の血が流れ、あるものは死に、あるものは逮捕され、彼自身も傷つき暴力の一線を越えた。彼が敵から命がけで守りきったヒロインは最後に心の平安を取り戻すが、香港に別れを告げ故郷の中国青島に帰る。
ここで、映画の鍵となる主人公の台詞2篇を引用してみる。まず一篇。
曾經聽講過,貪心嘅男人靠唔住。我話,貪心嘅人唔可以維持公平,公正。貪嘅世界,人係唔會有前途。
(彼女は欲張りな男は信用できないと言っていた。俺も強欲な奴は公平さを維持できないし、公正な判断ができないと思う。欲の支配する世界で人は絶望しかない。)
これはある意味、映画ウォール街(87年)でマイケル・ダグラス演じる投資家のゴードン・ゲッコーが言った、
Greed is good.
(欲は善だ)
のアンチテーゼであろう。次の一篇は物語の最後で語られる台詞だが、
實際上,乜嘢都冇改變過。只係人生多咗個經歷。換咗一段永遠追唔返嘅時間。呢d公仔紙實在超值。
(実際のところ何も変わらなかった。永遠に取り返すことのできない時間と引き換えにただ人生の経験を一つ積んだだけだ。この紙切れには額面以上の何かがある。)
これは、アカギの
ただ勝った負けたをしてその結果無意味に人が死んだり不具になったりする。そっちのほうが望ましい、その方がバクチの本質であるところの理不尽な死、その淵に近づける。
という言葉のように、プラマイゼロの世界で金が不条理に人を翻弄する姿をえぐっていると言えるだろう。
このように現代社会の金にまつわる不条理さを執拗に問いかける映画を、陳腐だと言って排除してしまったらダメだと思う。メッセージ性のある映画は好きだ。そしてそういう香港映画が受け入れられないことが悲しくもある。
なぜか受け入れられないのか。それは香港映画の作り手と受け取り手が分断しているからである。香港映画は香港で全く儲からないのだ。だから香港人の独断的価値観でよしとする作品が作れない。当該作品の香港での興行成績を見たが、わずか数千万円である。利益ではなく、売り上げが、である。一方、評判が悪いにもかかわらず大陸では20億円以上の興行成績を収めている[4]。このような状況では香港の映画監督は中国大陸に目を向けざるを得ない。(ちなみに当の香港人もあまりこの映画をありがたがっていない様子。二兎を追う者一兎をも得ず状態の惨劇極まる。)その点日本映画は消費者が存在する分、まだ恵まれていると言える。
中国の批評サイトでは、「台湾マフィアは家を持たぬ流浪の民、中国大陸は犯罪の温床、トン・リヤが演じた(ヒロインの)中国娘は香港人の庇護を受けないと生き残れない存在という設定の、よくある平凡な香港映画だ[5]」という感想を見かけたが根が深い。中国大陸を絡めないと興行にならないから、俳優のキャスティングや舞台設定に関していろんな葛藤があるのだろう。人間の本質は普遍的なものであるとはいえ、香港の高密度な都市国家型市場経済と中国の混沌とした社会主義市場経済の間に横たわる溝も深い。この辺りは監督と脚本家がうまく話をまとめないとダメなのかなと思う。
頑張れ香港映画。
たとえどんな姿になっても私は10年後の誕生日もきっと香港映画を見ている。
[1] 豆辦電影 謎城 豆瓣评分: 5.5
[2] Rotten Tomatoes TomatoMeter: 40%
[3] IMDb 5.7/10
[4] Box Office Mojo Wild City (2015) International Box Office Results
[5] 豆辦電影 謎城 短評