物質的にもエネルギー的にも孤立したマクロな系を十分長い時間放置すると、どんなマクロ変数も時間変化しない特別な状態に至る。このときの系の状態を平衡状態equilibrium stateと呼ぶ。また局所的平衡状態local equilibrium stateと呼ばれる議論に関係するのだが、もしも系の一部(部分系subsystemと呼ぶ)の状態が、その部分系をそのまま孤立させたときの平衡状態とマクロに見て同じ状態であれば、その部分系の状態も平衡状態と呼ぶ。平衡状態にある系の部分系はどれも平衡状態である。また部分系が集まってできた系全体のことを複合系composite systemと呼ぶ。
少し雑談をしよう。まず平衡状態という言葉に初めて出会うのは高校の化学であろうか。おそらく化学平衡chemical equilibriumについての説明で初めてその概念に接したのだと思う。化学平衡は、ある物質の可逆反応について着目する。例えば塩化水素の溶媒中での電離を考えると、塩化水素分子(HCl)、水素イオン(H+)、塩素イオン(Cl–)の間で以下のような可逆反応が生じることが示されている。
矢印の右から左に進む反応と、その逆に向かう反応が両方起こりえるときにその反応は可逆であると言う。塩化水素を水に溶かすと(1)式を右向き→に進む反応が急速に進行するが、ある程度水素イオンと塩素イオンの濃度が増えてくると、逆向き←に進む反応が増えてくる。ある程度塩化水素が水に解け切ると、最終的には右に進む反応と左に進む反応の速度が等しくなり、見かけ上系が安定し何も起きていない状態に見えるようになる。これが化学平衡である。
今回熱力学で議論するところの平衡状態は化学平衡よりも汎用的な平衡モデルであり、熱力学的平衡thermodynamic equilibrium、熱平衡thermal equilibrium、または熱力学を議論していることが分かっている場合は単に平衡equilibriumと呼ぶ。汎用的という言葉を使ったのは、熱力学的平衡は、対象が化学反応に限らないためで、系が熱的、化学的、力学的に平衡してマクロに見たときに見かけ上何の変化も起こらなくなった状態のことを熱力学的平衡と呼んでいる。想定する環境は孤立したマクロな系である。孤立した状態というのは外界とエネルギーや物質のやりとりがないということである。密閉した温度を通さない容器の中は孤立したマクロな系と言える。完全に断熱加工をした密室のようなイメージである。
例を挙げてみよう。ある孤立した部屋の中に標準状態の空気とよく熱した鉄板を入れるとどうなるか? まず鉄板の周辺にある空気の温度が上がるはずだ。暖められた空気は上昇し対流が生まれる。空気が暖まった分だけ鉄板の温度は徐々に冷えてゆき、そのうち手で触れるくらいの温度になる。十分長い時間が経つと鉄板の温度と空気の温度は等しくなり、したがって対流もなくなり、見かけ上何の変化も生まれない状態になる。部屋が存在する限り、ずっとそのままである。このような状態はマクロに見たときに系が何も変化しなくなるという意味で非常に特殊だが、経験的に広く受け入れられている事実であり、日常生活でも頻繁に経験するありふれた現象である。この思考実験の最後のフェーズが熱力学的平衡の一例である。
平衡状態はどんなマクロな系にでも必ず存在すると言う意味で普遍的であるが、平衡状態を壊す新たなイベントが発生すれば、次の平衡状態に向かって系が変化してゆくことになる。熱力学は、平衡状態の体積や温度といったマクロな性質と、ある平衡状態から次の平衡状態にどのように移り変わるか(遷移)のみを簡潔かつ普遍的に記述した理論である。つまり熱力学で扱うのは、マクロな系が平衡状態にあるときのマクロな物理量、ということになる。
電流、水流、熱流などのいわゆる「流れ」と呼ばれる量はマクロな量ではあるだが、平衡状態においてそれらは常にゼロになるので熱力学の変数には入っておらず、したがって熱力学では考慮もされない。非平衡non-equilibriumな状態で現れるこれらの量を計算するときに熱力学は使えないため、必要なときは例えば前述したような流体力学などの非平衡系の物理学を用いることになるのである。